青の書斎

ドラマ・映画・小説などのレビューを書いています。

古今和歌集・春歌上・4番歌「雪のうちに春はきにけり 鶯のこほれる涙いまやとくらん」

・詞書

二条のきさきの春のはじめの御うた

 

・作者

二条のきさき

 

・歌

雪のうちに春はきにけり

鶯のこほれる涙いまやとくらん

 

・訳

雪のうちに春はきてしまった

鶯の凍った涙をいまとくのだろうか

 

〇鶯のこほれる涙

ウグイスの涙という描写が大変かわいらしいですね。冬なれば、その涙も寒さゆえ凍ってしまうだろうという発想を元に、その凍った涙を「春」がいまとくのだろう、という発展のさせかたをしており、それが歌の中核になっています。

なお、涙が凍るという発想については、白氏文集に先例があるようです。

 

夜来巾上涙(やらいきんじょうのなみだ)

一半是春氷(いっぱんはこれしゅんひょう)

 

作者がこの閨怨詩(けいえんし:夫の帰りを待つ婦人の嘆きの歌)を意識したのかはわかりませんが、夜通し泣き続けてしまったこの夫人に対して、涙するウグイスには「いまやとくらん」という結句が救いとなっており、穏やかな余韻を残しています。

 

なお『日本古典文学大系』は次のように訳しています。

 

凍っていて泣くにも泣(鳴)けなかった鶯の涙が今は解けることだろう。

 

涙が凍ることから、涙を流して泣けない、ナケナイ、鳴けないというつながりで解釈しています。つまり、涙が凍るということは、ウグイスがまだその美しい声で鳴けないことを示しているという読み解きです。

 

『余材抄』でも次の通り。

 

鶯に涙あるにもあらず、こほるべきにもあらねど、啼く物なれば涙といひ、涙あればこほるといふは歌の習ひなり

 

鳥が「声を出して鳴く」存在だから、あえて鶯に涙させたということでしょう。

 

確かにそういった線も張られているように思いますが、歌全体としては、鶯が寒さに耐えつつ涙するイメージが強く、けなげな印象の目立つ作と言えそうです。

 

〇実景と想像のボーダー

初句から二句にかけてが実景だとすると、三句以降は想像上のシーンと言ってもよさそうです。春到来の事実から鶯に思い至るのは普通のことですが、鶯を「涙」と掛け合わせつつ最後に「とくらん」で穏和に解決させる技が見事だと感じます。

 

次回、5番歌に続きます。

古今和歌集・春歌上・3番歌「春霞たてるやいづこ み吉野の吉野の山に雪はふりつつ」

・詞書

題知らず

 

・作者

よみ人しらず

 

・歌

春霞たてるやいづこ

み吉野の吉野の山に雪はふりつつ

 

・訳

春霞が立っているのはどこだろうか

吉野の山に雪は降り続いている

 

〇暦上の春と現実の冬、その対比

カレンダー上は春になったものの、実際にはまだ雪が降り続いており、春の実感が湧かないという気持ちに端を発した歌です。この捉え方は、現代のわれわれでも『早春賦』の唱歌で親しみのあるものだと思います。

 

〇春霞を探して

春霞は枕詞で、「立つ」と相性の良い言葉です。実際、3番歌では「春霞たてるや…」と、動詞「立つ」へ接続しています。冬晴れのすっきりとした視界を、霞は少しぼやけた感じにします。遠くまで見通せなくなるし、ものの輪郭もあいまいになります。しかし、その夢幻的な雰囲気が、春を待つ人々にとっては恋しい景物として、憧れの対象であったのではないでしょうか。

 

〇「静」と「静」

春の歌では、春を称揚するのがふつうです。しかし、吉野の山に雪が降っているという冬の描写もまた、この歌においては重要なパートです。実際、吉野は「み」を冠した美称になっており、吉野山に雪が降る様子を肯定的にえがいています。

また、山に雪がしんしんと降り続ける様子と、春霞の立った景色。どちらも「静けさ」をもった要素です。静的なものを二つ歌に登場させることで、幽邃な雰囲気を作り出しています。

 

次回、3番歌に続きます。

古今和歌集・春歌上・2番歌「袖ひちてむすびし水のこほれるを 春たつけふの風やとくらん」

・詞書

春たちける日よめる

 

・作者

紀貫之

 

・歌

袖ひちてむすびし水のこほれるを

春たつけふの風やとくらん

 

・訳

袖が浸かって結んだ水が凍ったのを

春立つ今日の風がとかしているだろうか

〇31文字に一年を収める

袖が浸った状態で水を手で結んだ夏。月日は過ぎ、やがて厳寒の候に。袖を浸していた水辺も凍ってしまったが、立春の今日吹く風が、今頃それをとかしているだろうか…といったように、31文字を読むことで、春夏秋冬の移ろい感じることのできる一作になっています。

 

〇体感的な描写

初句から二句にかけて夏の描写があります。袖が浸かったまま手で水をすくうということは、のどの渇きを潤したかったのでしょうか。川か湖かわかりませんが、水の流れる音や、ヒヤッとした手触り、周囲の自然音が聞こえて来そうです。

一方、冬になりその水が凍ってしまうと、水は流れるのをやめてその場に留まります。鳥たちも夏のような元気な声を聞かせてはくれません。

理知的な味わいの巻頭歌に対して、五感に訴える描写が作品の核になっています。

 

〇凍った水を風がとく

凍った水を立春の風がとかすというのは、リアルな物理現象を言っているわけではなく、一つの比喩として捉えるのがいいように思います。立春の日に風が吹きわたり、野や里に春の到来を知らせる、そんな季節の変わり目を表すたとえですね。

 

それにしても、結句に爽やかな風を残すこの余韻、素敵です。

 

次回、3番歌に続きます。

~緊張感のグラデーション~『美味しんぼ』第1話「究極のメニュー」

こちらは『美味しんぼ』のレビュー記事です。

 

〇第1話の概要

主人公の山岡士郎、栗田ゆう子の登場。

主な筋書は以下の通り。

 

 

他にも見所がいっぱいあります。

 

その1 新入社員生活の活写

大混雑の地下鉄に揺られていた栗田さんが地上に出て一言

「これから毎朝この地獄と戦うのか」

とため息交じりに言ったのち

腕を振り上げて「よしファイト!」と駆け出す描写。

赤のジャケットも相まって、若者の溌溂とした勢いが出ています。

 

サラリーマンがすれ違いざまに

「なんだあの女の子は?」

という感じで振り向くきつつ、地下鉄へ去っていきます。

通勤列車で社へ向かうという、毎日のルーティンワーク。

多くの勤め人にとっては当たり前のことですが、

初出社の栗田さんにとっては、特別な意味を持った時間なんですね。

いぶかしむサラリーマンが配置されることで、栗田さんのフレッシュさが際立ちます。

 

「新入社員教習を経て今日から東西新聞文化部の”記者なんです 私"」

という栗田さんの台詞(心の中の声)。

この「記者なんです 私」という倒置法がいいですね。

フレッシュマンの新鮮な心持が巧みに言い表されている感じです。

 

その2 緊張感のグラデーション演出

東西新聞文化部の職場がビルの窓越しに映し出されるシーン。

台詞の順は以下の通りです。

 

  • 社員「はい、こちら文化部」
  • 社員「はい、その件でしたら昨日ですね…」
  • 社員「これ、コピー10部、頼む」
  • 栗田「はい!」
  • 社員「でさあ、俺がオーラスで親だったんだよ…」
  • 社員「まいったよ、最後にツモられちゃうんだもん…」
  • 谷村部長「みんな、ちょっと聞いてくれ」

※「オーラス」とはオールラストのこと。最後の一局。

 

上記セリフの配列を細かく見てみると

 

  1. 内線電話での他部署とのやり取り
  2. 部内の社員同士の仕事やり取り
  3. 部内の社員同士の雑談
  4. 文化部部長から全員へ向けての報告

 

という並びになっています。

他部署とのフォーマルな会話からスタートして

部内の社員同士の仕事のやりとり、やがて

昨晩の麻雀についてのグチり、ダベり…という風に

段々と緊張感が弱くなってくる。

そこへ谷村部長からの鶴の一声が響き、

一気に部屋の中の緊張感が高まるという運び。

動と静との対比が際立ちます。

しかも、栗田さんが新入社員として頑張る様子も

さり気なく挟んであって、冒頭シーンとのつながりも

感じさせてくれます。

 

その3 グルメバトル

 

料理を使ったバトルは『美味しんぼ』の醍醐味なので、第1回に限ったことではありません。そのバトルのきっかけから決着までの見せ方は、スムーズです。簡単に流れを追ってみましょう。

 

  1. 鋭敏な味覚の持ち主を選ぶためのテストが実施される
  2. 栗田・山岡(呼ばれる順)がテストに合格
  3. 大原社主より東西新聞創立百周年記念企画「究極のメニュー」の発案
  4. 山岡・栗田(呼ばれる順)が「究極のメニュー」担当者に抜擢される
  5. 「究極のメニュー」の助っ人として呼ばれた食通3人と会食中に口論、山岡が「一週間後にフォアグラよりうまいものをもってくる」と啖呵を切る
  6. 苦戦したのち、目的のあんこうを釣り上げる
  7. 決戦日、あんこうの肝がフォアグラの味を上回り山岡の勝利。

 

なお、第1回の時点で、山岡さんは既に究極のメニュー担当者に登用されています。そのため、次回以降は「1~4」のフローがすべて省略され、「問題発生→料理の準備→対決および決着」のシンプルな形になります。

 

また、決戦当日の決着の仕方が放送回によって何種類かあるので、パターン化できればと思っています。今回は第1回なので、決戦の様子をつぶさにメモします(かなり長くなるので第2回からは端折ります!)。

 

先手/食通チーム:フォアグラ

食通「見事だ、さすがにうまい」

食通「またこの中のトリュフが泣かせますなあ」

食通「(笑顔、黙って首肯)」

大原社主「(おいしそうに)うん」

食通「美食の王とはよく言ったもんですな」

栗田「おいしい」

栗田「まったりとコクのある味と香りが口の中にとろけるように広がっていく」

 

後手/山岡:あんこうの肝

食通「なんだね、これは一体」

山岡「アンコウの肝ですよ」

食通「何?」

富井「えーっ!あの一杯飲み屋のおつまみに出てくるアンキモ」

食通一同:笑い声

食通「こりゃ大笑いだ、くだらん冗談だ」

山岡「まず食べてみてください、文句はそのあとで伺いましょう」

食通「ハハハハ、よし、食べてやる」

効果音「ポワワワ~ン」

栗田「おいしい!」

食通「(動揺気味に)バカバカしい」

栗田「本当です、このコクのある味わいは、フォアグラには劣らないと思いますけど」

食通「まあ、決してまずいとは言わんが、しかしこんな下等なものとは比べようが、ハハハ」

社主「確かに、フォアグラにはない鮮烈さがある。少しも生臭くなく、豊かな香りだ

富井「アンキモのほうがこってりとしているのに、味が純粋で澄んでますな

谷村「確かに食べ比べると、フォアグラはアンキモの前ではかすんで見える

山岡「深海の自然の中で育った健康そのもののアンコウの肝臓と、人間の小ざかしい悪知恵で造りだした病的な肝臓と、果たしてどちらがうまいか」

山岡「しかもこのアンキモはとれたばかりをその場で調理した。フランスから送ってきたフォアグラとは、鮮度も天と地の差がある」

食通「何を言うか!フォアグラは世界の食通がうまいと認めた味だぞ」

食通「そうとも。フォアグラの味が分からんなんて、食通じゃない」

大原「なるほど、究極のメニュー作りに食通の先生方のご協力は要らんようだ」

食通「何ですと?」

大原「あなた方には、自分の舌にかけて新しいおいしさを発見しようとする気構えが見受けられない」

大原「レストランのガイドブックは書けても、新しい食の文化を切り開くことはできんでしょうな」

食通「(悔しがって)くぅ…」

大原「山岡君、究極のメニュー作りは、君と栗田くんだけで思い通りにやりたまえ!」

山岡「食通と言われる先生方に対してつい意地になっただけですよ」

山岡「そんな企画、俺には興味ありませんね(立ち去る)」

栗田「(山岡を追って)山岡さん!」

 

こういった具合に、先に出されたフォアグラの旨さを、後から出されるアンコウの肝が上回って勝敗が決するという演出になっています。

 

美食として名高いフォアグラがおいしいからこそ、アンコウはそれを超えられるのか?という緊張感が発生するわけです。食通の先生方が口をそろえて言う「フォアグラはうまい」という感想がなければ、アンコウの肝は「ただ美味しい料理」で終わってしまいますもんね。こういった勝敗の演出は見慣れたものですが、一定の緊張感を保ちつつ、味覚という多くの人にとって曖昧な感覚について科学的に語ろうとする姿勢はこの作品の最も愛好される所以だと考えられます。

 

おすすめカット

無事あんこうを釣り上げ、肝を調理しながら岸に戻るシーン。

暮れかかった空が、あんこう入手までにかかった時間の長さや、

4人それぞれの「戦い」に一度決着がついたことを暗示します。

(山岡は食通をうならせる食材を調達すること、栗田さんは船酔に耐えてその場に留まること、漁師たちは山岡の指示通りの魚を入手すること)

 

そして蒸籠(せいろ)から出る湯気、乗船者たちのなびく髪…

これらの要素が、風を感じさせます。それに加えて、

右へゆっくりパンニングするので、全体として動きのあるカットになっています。

 

なにより素敵だと思うのは…シチュエーション的には「魚が釣れてよかったね」という穏やかな感じなのに、流れている音楽がちょっと不穏であること。釣果はあったものの、食通VS山岡の闘いはまだ終わっていませんので、音楽にあえて緊張感を残しているわけですね。この演出が素敵だと感じます。

 

次カットへ移るとともに、夕日に照らされた海が画面いっぱいに映し出され、あんこう入手に関しては一段落を得たことが演出の上からも強調されます。カットの切り替わりと同時に音楽の方にも変化が。のびやかなフルートの音色は安堵感を与えてくれます。

 

次回、第2話レビュー。

お楽しみに。

 

古今和歌集・春歌上・1番歌「年の内に春はきにけり ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん」

・詞書

ふるとしに春たちける日よめる

 

・作者

在原元方(生没年未詳)

 

・歌

年の内に春はきにけり 

ひととせをこぞとやいはん

ことしとやいはん

 

・訳

年の内に春はきてしまった

この一年を去年と言おうか

今年といおうか

 

〇旧年立春を詠んだ秀歌

古今和歌集の巻頭歌です。

いま私たちは太陽暦新暦)を使って1年を過ごしますが、平安時代太陰暦(旧暦)を用いていました。月と季節の対応は以下の通りです。

 

【旧暦の季節】

春:1月~3月

夏:4月~6月

秋:7月~9月

冬:10月~12月

 

詞書には「旧年中に春が立った日に詠んだ」とあります。旧年中に春が立つということは、師走(12月)のうちに立春の日を迎えたということです。まだ暦の上では冬なのに、立春を迎えてしまったわけです。春が来た喜びも感じる一方で、立春が新年に先立ってしまう現象に戸惑う様子が「こぞとやいはん、ことしとやいはん」に表されているように思います。

 

立春が新年に先立つ現象は「旧年立春」と呼ばれ、そう珍しいことでもないようです。だから、「今年はなんと年内に立春が来てしまうらしいぞ」と驚きをもって話すほどでもない。しかし、この「旧年立春」を迎えた当時の人々の感懐を和歌の形にうまく調えて保存した元方さんのお仕事は、確かなものだと思います。

 

〇字余りとその効果

この歌には二か所の字余りがあります。

 

まずは初句の「年の内に」。これは「としうちに」などと言いつづめてしまえばうまく5音におさまるものを、あえて6音にしたのはなぜなのでしょうか。詳細はわかりませんが、「年の・内に」という3音+3音のリズムが欲しかったか、あるいは助詞の「の」をしっかり入れておきたかったか…。何にしても、字余りが起きることでリズムが崩され、少しスピード感が弱まります。あまりテンポよく流れて行ってしまうより、むしろ綺麗に流れていかない「停滞感」をあえて歌に残したかったのかもしれません。

 

二つ目に結句「ことしとやいはん」が8音になっているのは、四句と対をなす構造にしたかったから、と思われますので、字数をオーバーしていても納得がいきます。

 

次回、2番歌に続きます。

HGUC060「パラス・アテネ」レビュー

今回のレビューは「パラス・アテネ」です。

 

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〇キットの概要

本キットは『機動戦士Zガンダム』に登場する機体「パラス・アテネ」を立体化したもので、旧キットでは付属しなかった武器・防具が全て揃ってHGUC化されました。

色分けは付属のシールを貼ることで、及第点程度までカバーできると思います。組むだけで十分カッコいい『パラス・アテネ』を手許に置くことができます。塗装派にはもちろん、素組派のモデラ―さんへ特に強くお勧めしたい商品です。立体物としての完成度が非常に高く、素組だけでも十分に楽しめることのできる大変優良なキットだと思います。

〇デザインと魅力

火力機であることを示す大型ミサイル8基が、機体の背部から放射状に伸びます。これらがいわば「集中線」の役割を担い、「パラス・アテネ」本体の存在感を際立てています。

ミサイルに限らず、天へ向かってそびえる2基のバックパックユニットやブレードアンテナ、左右のショルダーアーマーから突き出す計4基のスラスター、あるいはレッグアーマーに走る黄色のラインなど、「線」を感じさせる要素がそこかしこに配され、本機のデザインを引き締まったものにしています。

ゲルググ」は和装の裃(かみしも)を思わせるデザインでしたが、一方「パラス・アテネ」は襟の立った洋装で、貴人の装束のようにエレガントな印象。左右に控えるショルダーアーマーは卵型で、放射状に配されたモールドが拡散ビーム砲の鮮やかなピンクを引き立てています。

Zガンダム(機体名)」や「リック・ディアス」「マラサイ」といった他の機体の肩を見ると、必要な部品が無駄なく取り付けられた印象を受けます。一方「パラス・アテネ」の肩は、ダクト状の機構を介した先にスラスターが配してあり、調度品のような遊びの要素を感じさせます。こういった「兵器に対して美術品のような性格を与えるデザイン」は「PMXブランド」の特徴の一つであるように感じます。

機体名の元となったギリシャ神話の女神「アテナ」は、戦いの訓練のさなか気持ちの高ぶりから親友「パラス」を自らの手で殺めてしまうという業を背負った人物で、「パラス」の死後「パラス・アテナ」と名乗るようになったとのこと。この後ろ暗い過去が、所属軍を裏切ってしまうパイロット「レコア・ロンド」の人物像と重なるところがあります。機体に古代ギリシャの戦士を想起させるタージェ(Targe:小型の盾)を持たせたのは、そのためかもしれません。「ギャン」の盾と似ていますが、タージェのほうがより薄く、素朴なつくりになっています。

素組だけでも十分に見栄えのする「パラスアテネ」。随分価格が高騰してしまった印象ですが、是非お手元に一機置かれてはいかがでしょうか。

HGUC096「アイザック」レビュー

佐藤体積といいます。

初投稿ですが、どうぞよろしくお願い致します。

今回からガンプラのレビューをしていきたいと思います。

初回は電子戦特化の「アイザック」です。

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〇キットの概要とデザインの魅力
本キットは『機動戦士ガンダムΖΖ』に登場する機体「アイザック」を立体化したものです。HGUC通し番号96、2009年6月発売の機体で、2021年現在にあっては割と古いキットに入ります。素体がハイザックなので、基本的には見慣れたフォルムであるはず。しかし「アイザック」は、「ハイザック」とはまた別の機体として楽しむことができます。

一番の奏功者は間違いなくレドームという圧倒的に異質なオブジェクトだと思います。巨大な円盤をかぶらせる(背負わせる)ことで、ずいぶんと奇妙なシルエットを獲得することになりました。しかしこれが「アイザック」というキャラクターを立たせるうえでスペシャルな要素になっているようです。

また、レドームの「円形」に呼応する形でパーツの形状が吟味されています。
・「柱状」のプロペラントタンク
・「円形」の通信用ディスクアンテナ
・「丸み」を帯びたショルダーアーマー

ハイザック」はスパイクアーマー(トゲつき肩装甲)を採用していましたが、「アイザック」では肩のスパイクが消えています。何か設計上のアイデアが働いていると思うのですが、恐らくそれは「偵察専用MS=非戦闘型MS」であることをアピールするための仕掛けではないでしょうか。実際、「アイザック」の外箱および説明書表紙の写真では、唯一のオプション武器であるザク・マシンガン改を外され、素立ちの状態になっています。

一般的に人が物体を観測したときに受ける印象は、とがったものほど「攻撃的」、丸みを帯びたものほど「優しく協和的」のようです。一方本キットは、ラウンドな図形で統御されたフォルムに加えて、見る人の気持ちを落ち着かせる「青」の装甲色。これらにより「アイザック」独自の味わいが生まれているのかもしれません。

ブレードアンテナとグランドセンサーは尖っていますが、前述の法則から外れるものをわざと置くことで、円形一本やりなデザインに破調をもたらし、飽きさせない工夫を施していると言えるかもしれません。

このように、パーツごとにその設置意義を感じさせる「アイザック」という商品には、「既存のハイザックを素体にしてお手軽にモビルスーツを増産しよう」というような手抜き感は感じません(個人的に)。

〇キットの注意点
・ザク マシンガン改が装甲色と同色です。腕と銃器が地続きに見えて、見た目のメリハリが利きません。問題の解消には塗装が必要だと思われます。
・青い円盤状のレドームは回転できますが、受け皿に乗っかっているだけなので、簡単に外れます。

〇ほか
機体名の「EWAC(イーワック)」は早期警戒管制を指す「Early Warning And Control」の略称です。ただし「EWAC ZACK(イーワック・ザック)」のどこにも「アイザック」とは書いていませんよね。恐らく「アイザック」という名前は、戦況をつぶさに分析する「目」としての役割を与えられたことから、ハイザックをもじって「アイ(eye)ザック」にしたものだと思います。
なお「アイザック」は、イギリスの科学者ニュートンを思わせる名前です。電子戦特化のアイザックを特徴づけるため、頭脳的な戦い方を期待させるような呼び名を考案したのでしょう。「ハイザック」という音を十分に残しつつ、1文字変えるだけで絶妙なネーミングを生み出した開発陣に感服致します。