青の書斎

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~母の言葉~『クイーンズ・ギャンビット』第4話「ミドルゲーム」

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第4話の「ミドルゲーム」を見てきました。内容的には中々重いところもありましたが、前回の「ダブルポーン」とは違った舞台で展開されるストーリーが新鮮でした。

 

〇「ふつうの女の子」としての人生も、アルマは応援

ベスは以前言っていた通り、ロシアの強豪ボルゴフとの戦いに臨むため、学校でロシア語の勉強をします。ベスは男子学生から興味を持たれ、彼らの主宰するパーティーに参加。そこは男女の集ういわゆる「遊び部屋」で、ハイになるための薬を吸ったり酒を飲んだりスキンシップをしたりと、自由奔放な空間となっています。

濡れ場もありますが、独りよがりな男の所作に、どうもベスとしては不満足な様子で、いっそコミカルと言っていいくらいの描き方になっているところがユニークでした。性にオープンなご家庭なら、皆さんで一緒に見てもいいと思いますが、結構「攻め気味」のカットがありますのでご注意ください…(笑)

恐らく人生初の朝帰りコースとなったベスですが、養母のアルマに電話を掛けるシーンは結構緊張感がありますね。彼女がどういう反応を示すのか、すごく気になる。でも、ベスが初めて男と一夜を過ごしたことについて「チェスだけが人生じゃない」と言って笑顔を見せているので、娘の成長として喜んでいる様子。もちろん、避妊について気を配るように、釘だけは差しますけどね。

もしかしたら、血のつながりがないからこそ「まだほんの子供なのにアンタなにやってんの!」という頭ごなしの叱責にならないのかもしれません。そのおかげで冷静に娘の行動を受け止められるというか。

〇アルマの言葉

「知識より大切なものがある」
「直感は本の中からは得られない」
「リラックスしなければ力は発揮できない」

大会前日、ホテルの室内でチェスの勉強にいそしむベスを見て、アルマは様々な言葉をかけます。あら、以前にも同じようなシチュエーションがあったような。ベスがチェスの勉強中に、アルマがホテルのテレビを大音量で観ながら笑いこけて、彼女をイライラさせるということがありましたよね。

またこのパターンか、と。ベスが静かに勉強してるんだから、放っておいてあげてよ…と思ってしまうところですが、なんだかんだ説得された結果、動物園へ遊びに行くことになりました。そこで今回の強敵・ボルゴフの姿を見かけるんですよね。距離こそ10メートルほど離れてはいますが、思いがけぬところで出会ったことで、ベスの心に緊張が走ります。ある意味、チェスから離れて遊びに行っても、対局という運命からは逃げられないというような暗示にも思えるようなシーンでした。

それでも、アルマの助言にベスは助けられたようです。ジョルジ・ギレフという年少者との戦いに苦戦を強いられるのですが、封じ手を用いた2日がかりの対局も、後半は余裕をもって指すことができ、相手を圧倒します。その様子は一手指すごとに離席して遠くから対局相手を眺めるという、挑発的なものでしたが、先の「リラックスによって発揮される力がある」とのアドバイス通りの運びとなった点は見逃せません。

〇再び”一人”に

ボルゴフはエレベータの中で「彼女(ベス)は孤児で、チェス以外に生きる道はない」といったことを、仲間と相談し合います。ベスと乗り合わせていることは知らなかったので、話を聞かれてしまったことを彼らは気まずく思ったようです。

ボルゴフとの対局後、アルマはアルコール過剰摂取を原因とする肝炎によって、ホテルの室内で死んでいる状態で見つかります。この別れによって、ベスはまた「一人」になります。というのも、養父の方は妻のアルマをほとんど気にかけておらず、訃報を入れても死因すら聞かない無関心な有様だったので、ベスの側から電話を荒々しく切ってしまうわけですね。養父の素っ気なさは昔からのものだったので、ある程度こうなることはわかっていましたが。

アルマがホテルのロビーでピアノを演奏し、聴衆たちから拍手を受けるシーンでは、彼女が人前で演奏することのできない「あがり症」を克服したかのようにも思えました。これが彼女にとっての最後の晴れ舞台だったわけです。酒浸りだった彼女の人生に、少し光が差したように見えた分、突然の死は受け手にとっても辛いものとなりました。

ラストカット手前の旅客機内で、隣の空席に向かって乾杯するベスの目には涙の跡が。養母アルマとの関係は、もうベスにとって表面的なものではなくなっていたことがよくわかるシーンです。つらいですね。

そうなると、この第4話で初めてアルマのことを「お母さん」と呼んでいたのは、二人目の母の死につながる伏線だったとも言えるわけで、辛い結果となりました。

(第5話につづく)

~少女は「挫折」に出会う~『クイーンズ・ギャンビット』第3話「ダブルポーン」

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遠征のためシンシナティに訪れたベス達。宿泊部屋に入ると、二人は室内の備品を触ったりテレビのスイッチをつけたりして、部屋の使い心地を確かめます。アルマが「頼んだ通りの快適な部屋ね」と言うと、ベスはベッドへ身体ごと飛び込んでトランポリンのような弾力を楽しみます。それを見てアルマも大笑い。

このカットの手前にはオープニングシーンが用意されています。どうやら、幼少期の思い出のようです。ベスの実母が水泳に興じますが、潜水後なかなか上がってこないので、幼いベスはどんどん不安になって、母を呼びます。しばらくするとたっぷり30メートルは先の足場に母が登場して、ベスに手を振ってくれました。やがて岸辺に戻ってきた母は彼女を抱きしめ、カメラが二人の周囲を旋回しながらタイトルコールへ。

第1話で登場した母は、精神的なつらさを抱えているようでしたが、思い出のシーンでは明るく健康的な女性として描かれ、そのおかげで人間像に深みが出ました。明るく健康的な一面もあった母は、なぜ自死を選んでしまったのかという、視聴者の興味を引く一本の線が生まれました。

シンシナティの大会では名乗る前から関係者に有名プレイヤーとして認知されており、その評判通り順調に勝ち進み優勝をさらうベス。決勝戦の様子を見ていた養母アルマはチェスのことがわかりません。ギャラリーに戦局を尋ねつつも、ベスの勝利がわかると誰よりも早く拍手をします。

視聴者としては、ベスに対して実の子のように無償の愛をもって接してほしいと思う一方で、アルマはベスの成長ではなく優勝して手に入る賞金が手に入ることを喜んでいるのではないか?という不安が絶えずあります。そういう不安を表現する意味で、アルマの言動は絶妙です。

シンシナティ大会の優勝後、アルマはベスに交渉を持ち掛けますー「私への手数料として、賞金の10パーセントでどう?」ーこの10パーセントという割合には、恐らくアルマの譲歩が表れているのでしょう。労力がイコールなら、賞金は二人で50パーセントずつ分けるのが筋です。しかし、ベスの類まれなる腕あってこその賞金なので、敬意と譲歩をパーセンテージに込めているわけですね。

このあとベスがどんな反応を示すのか、受け手は緊張しながら見守ります。結果的には「15パーセントに上げましょう」とベスの側からアルマの取り分を増やすよう言います。このやり取りを見て視聴者もホッと一息つくわけですね。

さて、第3話のオシャレなシーンの一つに、ベスが下着姿でベッドに仰向けになり、自室の天井を見上げるシーンがあります。このシーンはベスがハイスクールの友人の家で開かれた女子会に参加したのちに差し挟まれます。仰向けのベスに、チェスの駒のシルエットが映り、それがだんだんと大きくなっていくのです。女子会で「遠征中にいい男見つけた?」「"駒を交わしてみたい"と思う男は?」という質問を投げかけられたことがきっかけになっているようですね。何となく、白の下着は純潔を象徴し、黒い駒の影は男性を表しているようにも見えます。

このシーンは、ベスの心に宿り始めた異性への興味を示す意味にとることもできますが、だんだん近づいてきて、やがてはベスを覆いつくしてしまう黒い影の描写は、どちらかというとおぞましい感じが強いです。後ろで流れるVoguesのヒット曲「You're the One」の青春謳歌的な雰囲気も、かえって絵面の怖さを引き立てています。そしてこのシーンで前半が終了。

後半の幕開けは都市の遠景と、そこに現れる「LAS VEGAS 1966」の大きなロゴでスタート。夜から昼へ、そして室内から遠景へ…。前半最終カットの息の詰まるような雰囲気からの解放感が心地よく感じられます。そしてこの後、ホテル外観からベスが歩き出して、対局場前まで移動するまでの間は、その間約2分20秒弱、ワンカットで撮影されています。ホテルの客やスタッフなど、これだけ多くの人物が映りこむシーンをひとつなぎで撮るのは大変だと思いますが、その分人々の生活やホテル内の臨場感をリアルに描き出す効果的なカットに仕上がっています。

その後、記者兼チェスプレイヤーのタウンズに誘われ彼の部屋に入るベス。タウンズは彼女のポートレート写真を撮りつつ段々と距離を縮めていきます。やがてその顔に触れようとしたとき、同室者のロジャーが部屋に戻り、「邪魔したかな」と定番の台詞を残して去っていきます。男性の肉体が強調されるシーンもあり、やはり前半のラストカットは、ベスの女性としての意識の萌動や、その女性を狙う”狼”たちの存在の隠喩として設置されているように思えました。

そして、最終チャプターのクライマックスは全米チャンピオンであるベニー・ワッツとの対局です。二人は当然のごとく決勝で対決することになりますが、そのまえに前哨戦が行われています。というのも、ベニーがベスの指し手に危ういところがあったと指摘したのです。自分の打ちすじに自身があった彼女は、その場では「そんなわけない」と気丈に突っぱねますが、そのあとすぐに実際の盤を使って確認します。そこで自分がいかに危ない橋を渡っていたのかを気づかされるのです。

他人から間違いを指摘されるという初めての経験に焦燥を覚え、養母アルマに不安の丈をぶつけますが、彼女は「過ぎたことは気にせず寝なさい」と言います。恐らくベスは、アルマにチェスの素養がないがゆえ、自分の苦悩に深いレベルで共感することができず、フラストレーションに感じているのでしょう。

決勝でベニー相手に仕掛けるベスですが、どうやらベニーはそのワナを見抜いたうえでより高い次元から大局を俯瞰していたようです。次第に戦局が悪くなり、音楽も不安感を煽ります。特に、チェロの低音がクロマティックに動くアイデアは、追い詰められたプレイヤーの絶望感を見事に表現しているように思います。一瞬はさまれるシャイベルの「投了しろ」という威圧的なカットも怖くていいですね。

なお決勝戦のシーンは、対決中の様子と、その後のベスとアルマによる「反省会」の時間軸をラリーのように行き来しながら描かれています。「反省会」シーンでは二人の表情が暗いので、視聴者の側も負けたのだろうと察しがつきます。決勝戦の描写が終わりきらないうちに「この試合は負けたんだな」と分からされてしまうわけですね。そうすると、今度は「それなら、どうやって負けたんだろう」という事に興味が移ります。そしてベスの慢心や、ピンチを耐えて機会をうかがう精神的強靭さの不足が敗因になったのであろうということに気づかされるわけです。

「反省会」において、ベスは初めての敗北を喫したストレスから愚痴のようなものを次々に吐き出しますが、アルマは「全てを完璧にこなすことは誰にもできない」と穏やかにたしなめ、また慰めます。にもかかわらず、ベスは「(チェスを知らない)あなたに何がわかるの」と、当てつけてしまいます。一瞬の間をおいて「敗者の気持ちなら」と返すアルマ。この絶妙なセリフには、彼女なりの思いやりと励ましが込められています。しかしベスは「でしょうね」と返してしまいます。さすがのアルマもこれにはカチンと来てしまい「(その敗北感を)味わえばいい」と言い放ちます。

昨晩の険悪な雰囲気を残しつつ、翌日ホテルを出る二人ですが、車中でベスの方からアルマの手をとり、そこに陽光が差し入ってきます。心なしかアルマの険しい表情も次第にほぐれていくように見えるような気がします。

 

第3話は「雨降って地固まる」の様相で終劇。敗北を知ったベスがチェスプレイヤーとしてどんな風に成長していくのか、そして養母アルマとの関係を良好に保ちつつ社会生活を送ることができるのか、気になるところ。

次の第4話でまたお会いしましょう!

~近くの親戚より遠くの他人~『クイーンズ・ギャンビット』第2話「エクスチェンジ」

第2話では孤児院から舞台が変わり、学校へ通うなど比較的自由な行動がとれるようになるベス。養子に取ってくれる育ての親が見つかり、養母アルマと過ごす日常生活にフォーカスが置かれる回です。

 

第2話のタイトルコール前。ベスは、シャイベルに助けを求めます。薬を黙って取ったバツとしてチェスを禁じられているので、何とかしてほしいと。シャイベルは彼女に目を合わせますが、何も言わずに電球の付け替え作業に戻ってしまいます。

 

すげないシャイベルでしたが、のちにチェス大会への出場費用をベス宛に手紙で送ってくれます。ベスは大会で全勝優勝し一躍話題に。養母アルマはチェスに賞金が出ることに興味を持ち、彼女を様々な大会へ遠征させるようになるのでした。

 

孤児院でのワンシーンを振り返ってみると、消えていた電球に光が灯り、廊下を鈍く照らしています。これは、ベスの将来の道を照らす明かりのようにも見え、隠喩的な描写だと感じました。

 

第2話でもとにかくチェスにおいて圧倒的な才能を示し続けるベスですが、賞金を稼ぎ始めるのもこの回からです。特に、年端もいかない少女が対局時計も大会ルールも知らないまま、大人たちを圧倒していく様子は痛快です。

 

 

生活がだんだん良くなってくる描写もいいですね。転入した学校で服装のセンスをからかわれるベスは、養父の進言もありデパートのバーゲンセールで養母アルマからテキトーに服を決められます。
しかも、買い物中に見かけたチェスセットについて話を振っても取り合ってもらえない。学校生活・私生活ともに充実しているとはいいがたいベスの日々、かわいそうです。チェスセットは小遣いをためて買いなさいと言われ、養母の側も冷酷の人というわけではないのですが、養子の興味に寄り添ってくれない態度に視聴者側のフラストレーションがたまっていきます。

 

そこへ来てシャイベルおじさんの助け舟。チェスの大会への出場料を受け取り、彼女のプレイヤーとしての生活が始まったのでした。この第2話は「近くの親戚より遠くの他人」という新たな格言を生み出しました。

~ジギャクを交えた老練な一首~古今和歌集・春歌上・8番歌「春の日の光にあたる我なれど かしらの雪となるぞわびしき」

・詞書

二条のきさきの東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せ言あるあひだに、日はてりながら雪の頭にふりかかりけるをよませ給

・作者

文屋康秀

・歌

春の日の光にあたる我なれど かしらの雪となるぞわびしき

・訳

春の日の光にあたる私だが

頭が雪となるのがつらいよ

見どころその1 「天気雪」と即興の手腕

二条のきさきとは、藤原高子(ふじわらのたかいこ)のことで、陽成帝の母。彼女が正月三日、文屋康秀を御前に召して、今の天候をタネに一首詠めというわけですね。天候というのは、日は照っているのに雪が頭にふりかかる、いわゆる「天気雪」の空模様。せっかく春の陽光を浴びているのに、一方では頭に雪が降りかかってくる、それがつらいというわけです。面白いのは、この歌を誰が詠むかで歌の味わいが変わってくるということ。何となれば、この歌の頭に雪がかかるという表現に、黒髪が白髪に変じるという隠喩が含まっているからです。清和天皇陽成天皇に歴任した康秀なら、この歌を詠んだときに初老を迎えていてもおかしくありません。長らく宮廷に仕え続けた康秀の頭は、白髪混じりになっていたのかもしれません。そういったことから、この歌には表・裏の意味が同時に存在しています。気づいた人にはくすっと笑えてしまうような、軽いジギャクが憎めない感じを生んでいます。

見どころその2 下の句へかけてのトーンダウン、余韻の哀愁

この歌には、どんな時代にも人が直面するテーマの一つ「老い」が詠み込まれています。前半には「春の日の光」という明るく温かな印象を持つ言葉を置かれますが、後半には「雪」「わびし」といった言葉でトーンダウンしています。さて、この歌の詠み方としては、明るく始まるのと、暗く始まるのと、どちらがよいのでしょうか…?そう考えた時、やはり今ある形が最も歌の趣を活かしていると納得させられます。その理由の一つ目は、明るい要素から始めて、後半でトーンダウンするデクレシェンド感が、人間が生まれて青年時代を過ごしやがて年老いていくという流れに逆らわないから、ということ。もう一つは、前半を誰にも分かる状況説明からスタートさせることで、後半のオチ、種明かしの面白さを受け手に分かりやすく伝えられるから、ということです。

物寂しい感じの歌ではあるのですが、この「老い」自体も歌にしてしまう創作態度。人生に対して前向きであることの表れといってもよいのでは?そんな風に思いました。

 

次回、9番歌に続きます。

~「居り?折り?」~古今和歌集・春歌上・7番歌「心ざし深くそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらん」

・詞書

題しらず

・作者

よみ人しらず

・歌

心ざし深くそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらん

・訳

気持ちを深く染めて折ったので

消えきらない雪が花のように見えるのだろう

見どころその1 春の到来を待つ心、その気持ちをどう表現するか?

今回も見立ての歌で、雪が花に見えるという景色を形にした歌です。ただ、単に雪の白が花の白を思わせるからという気まぐれな連想ではなく、「気持ちを強く春に向けて折ったので」という理由が付与されています。春を待つ作者の目が、心が、雪を花に見せている(あるいは見たがっている)ということでしょう。枝に降り積もった雪を花と見紛う風流心もよいものですが、歌の中心はあくまで作者の春の到来を待つ心ではないかと思います。

見どころその2 消えあへぬ雪…二重否定と冬景色の描写

「消えあへぬ雪」という表現は一見何気ないようですが、実質的には二重否定を使った描写ということができそうです。少し哲学的な話にはなりますが、モノの基本状態は「ある」です。「消える」ということは、「もともとあったものがなくなる」ということ。肯定の形ですが、実質的に否定の意味を持った言葉です。さらに、今作では「あへぬ」の語を伴っています。「あふ(敢ふ)」を補助動詞として用いると「完全に〜しきる」という意味を付け加えます。そのことから「完全には溶けきっていない雪」と訳すことが可能です。「消える」を否定しているわけですので、二重否定すなわち強めの肯定となります。

単純に雪がある、というのではなく、季節の展開的には消える方へ進んではいるが、まだまだ残っているという風に、春を待っている人物の心のフィルターが、歌を通して見えてくるような構造になっているわけですね。

見どころその3 「折り」「居り」論争!

この歌は、古くから「をり」の部分の解釈で説が分かれているようです。つまり「枝を折る」という意味での「をる」か、「そのばにいる」という意味でのをる」なのか。どちらの動詞を想定しても訳に不自然が生ずるわけでもなく、決定的な判断は下しにくいといったところでしょうか。
私が一つ提言したいことは、どちらの動詞が正解であるかを煎じ詰めるよりも、詠者が「をる」という動詞を選んだその判断にスポットライトを当ててはどうか、ということです。歌を詠む人で、しかも古今集に入集(にっしゅう)するくらいの作を残す人ですから、当然言葉に対するアンテナは高いわけです。そんな人が、自作の意図が不本意にも誤解されうるような、どちらとも取れる曖昧な言葉をあえて取り入れたりするのでしょうか?

仮に「心を深く染めてい(居)たので」という解釈で一本道にしたかったのなら、「をりければ」よりも「ありければ」を選ぶ道もありそうです。そうすれば「折る」という取られ方は絶対にされません。しかし、そういう背景がありながらわざと「をりければ」を選んだということは、どちらで解釈されても問題なく、むしろその両方の意味をキープした含みのあるニュアンスを残したかったという考え方が、後ろに控えていたからではないかと、私は感じています。言い方を変えれば、「居(を)る」の音に「折(を)る」が含まれるという程度のことを想像できない人物がこの歌を詠んだとも思われないのです。

皆さんは、どんな風に感じますか?

 

次回、8番歌に続きます。

 

 

~上の句の「?」と下の句の解決感!~古今和歌集・春歌上・6番歌「春たてば花とや見らむ 白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く」

・詞書

雪の木にふりかゝれるをよめる

 

・作者

素性法師

 

・歌

春たてば花とや見らむ 白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く

 

・訳

春が立ったから花と見るのだろうか

白雪のかかっている枝に鶯が鳴く

 

〇見どころその1 雪を花に見立てる優雅な表現

立春の日を迎えたとはいえ、目に映るのは枝に雪のかかる冬景色。そんな折にウグイスがやってきて一声を放つと、まるでウグイスが雪のかかった枝を、梅花の咲く姿に見まがい、やって来たように思える、そういった趣の歌です。早く温かい春が来て欲しいという作者の気持ちが、ウグイスの声・姿をきっかけにして、「白雪」を「花」に見せたわけですね。

〇見どころその2 ウグイス君の勘違い、ユーモラスな趣

「白雪のかゝれる枝」とありますが、雪のかかった枝といっても、とくべつ花の咲く様子に似ているというわけではないように思います。これはあくまで「見立て」の歌です。ある程度素材がそろったら、そこを起点に想像の世界へと飛翔してしまえば、歌の味わいが広がって、歌人ごとの個性も出しやすくなります。同じ景色を認めても、そこから思いつくものは歌人によって異なるというわけですね。
素性法師のこの作品は、あたかもウグイスが雪と花とを見間違えてしまったかのように表現しており、おっちょこちょいというか、お茶目な雰囲気の作に仕上がっています。

〇見どころその3 ストーリー構成の妙!上の句の謎と、下の句の解決感

上の句には「春が立ったので、花と見るのだろうか」とだけあり、何のことやら測りかねます。そもそも「花と見る」という動作の主が、誰なのかわかりません。この受け手の頭の上に浮かんだ「?」を解決するのが下の句です。そこで、下の句の始まりを見てみると、「白雪」ですから、「春」とか「花」というワードからはかえって離れてしまいました。そして、この二者をうまく結びつけるのが「うぐひす」の存在です。「花と見る」の動作主は「うぐひす」とわかったので、彼が花の近くに寄って来るのも納得がいくし、そう考えるとウグイスが「雪」のことを「花」と早とちりしているようで可愛らしく思えてきます。
こういったように、歌全体の趣意を俯瞰的に見るのではなく、初めて歌に接するかのように順を追って展開を確かめると、小さな物語になっていることに気づかされます。この感動が31文字にギュッと詰め込まれていることは、大変趣深いことです。また、すべての句に一つずつ体言が散りばめられるバランスの良さも特徴的ですね。

 

初句「春」

二句「花」

三句「白雪」

四句「枝」

五句「うぐひす」

 ※厳密には、三句・四句はまとめて「白雪のかゝれる枝」という大きな体言になる

 

次回、7番歌に続きます。

~極小と極大を行き来する魔術…だけではない~俳句・飯田蛇笏「芋の露連山影を正しうす」

 ・所収

山廬集』1914年

・作者

飯田蛇笏(いいだだこつ、1885年4月26日 - 1962年10月3日)

 ・句

芋の露

連山影を正しうす

〇見どころその1 予想しえない展開

飯田蛇笏の代表的な句との呼び声高い本作品の魅力は、なんといっても受け手に先を予想させない大胆な展開ではないでしょうか。芋の葉においた露は、近づかなければ見えないほどの微かな存在。そして対するは、山 。しかも「連山」とあるので、連なる山々の勇壮・雄大な姿が想像されます。芋畑の露から、山々のなす壮大な景色へのダイナミックな視点移動は、意外性を伴うものですが、受け手の胸中にひとたびイメージが喚起されると、納得とともに爽快な読後感を得ることができます。

〇見どころその2 時間帯の指定

露といえば、早朝に植物の葉におくもので、この句の示す時間帯も朝ということになります。空気が澄んで爽やかな印象である中に、小さく儚いものと、巨きく不動のものとが対比されるさまは、句の輪郭をよりはっきりとさせているように感じられます。

〇見どころその3 極小と極大…二者を一つのフレームに収めることを選んだ「眼」。そして「正しうす」の効果

  「連山」は途方もなく大きく不動のものなので、見たければいつでも視界に収めることができますが、「芋の露」の方は移ろいやすく、人間の側があえて見つける努力をする必要があります。加えて、タイミングよく二者を目にする機会があったとして、作品の形に残そうという気持ちが起こらなければこの句は生まれえないわけですし、さらに、言葉の選び方と配列の順も考える必要があります。そして「正しうす」という句の終え方にも、色々の試行錯誤があった末にそこに置かれたものであるはずです。
さて、この俳句は「芋の露」から始まっていますが、考えてみれば、作者が実際に目にした順で配列しているのかどうかはわかりません。例えば、先に山を見てから、露に気づいたのかもしれませんよね。実際の発見順がそうであるなら、作者は「山から露へ焦点を絞るより、露から山へ視野を広げたほうが句が活きる」という判断を下したことになります。極小から極大へと推移する、その末広がりな構図をよしとしたわけですね。

この句は、「芋の露」から「連山」へと視界がバっと広がるその過程に迫力があるわけですが、それを単なる迫力だけにとどめず、全体により深い味わいを与えているのが「正しうす」ではないでしょうか。連なる山々の持つ雰囲気を、ただ壮大だとうたうばかりでなく、「居住まいをただして整然とそこにある」と、山の立ち居振る舞いに踏み入って言及することで、ひときわ清涼さを生み出しているように感じます。実際、「連山」の2文字には、山の荒々しく峻険な側面をイメージさせる向きもあります。そこに「正しうす」が入ると、スケールの大きさに「うつくしさ」が伴って、作者の示したかった世界観が実現されることになるのではないでしょうか。
さらに付け加えると、「正」は「正面」「公正」「正々堂々」とった語群とつながります。人間がことに当たる際の実直さ・誠実さといった態度と、「連山の正しき影」という描写は、親和性が高く思われます。この句が、作者にとって「よい」と思われる景色を詠んだものであるなら、連山が作者にとって「こうありたい」という願いを投影したものと窺うのも一つの読みとして許されるのではないでしょうか。

※「短歌」シリーズは、アップのタイミングや選歌について、不定期です。

次回をお楽しみに。