青の書斎

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~「居り?折り?」~古今和歌集・春歌上・7番歌「心ざし深くそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらん」

・詞書

題しらず

・作者

よみ人しらず

・歌

心ざし深くそめてしをりければ消えあへぬ雪の花と見ゆらん

・訳

気持ちを深く染めて折ったので

消えきらない雪が花のように見えるのだろう

見どころその1 春の到来を待つ心、その気持ちをどう表現するか?

今回も見立ての歌で、雪が花に見えるという景色を形にした歌です。ただ、単に雪の白が花の白を思わせるからという気まぐれな連想ではなく、「気持ちを強く春に向けて折ったので」という理由が付与されています。春を待つ作者の目が、心が、雪を花に見せている(あるいは見たがっている)ということでしょう。枝に降り積もった雪を花と見紛う風流心もよいものですが、歌の中心はあくまで作者の春の到来を待つ心ではないかと思います。

見どころその2 消えあへぬ雪…二重否定と冬景色の描写

「消えあへぬ雪」という表現は一見何気ないようですが、実質的には二重否定を使った描写ということができそうです。少し哲学的な話にはなりますが、モノの基本状態は「ある」です。「消える」ということは、「もともとあったものがなくなる」ということ。肯定の形ですが、実質的に否定の意味を持った言葉です。さらに、今作では「あへぬ」の語を伴っています。「あふ(敢ふ)」を補助動詞として用いると「完全に〜しきる」という意味を付け加えます。そのことから「完全には溶けきっていない雪」と訳すことが可能です。「消える」を否定しているわけですので、二重否定すなわち強めの肯定となります。

単純に雪がある、というのではなく、季節の展開的には消える方へ進んではいるが、まだまだ残っているという風に、春を待っている人物の心のフィルターが、歌を通して見えてくるような構造になっているわけですね。

見どころその3 「折り」「居り」論争!

この歌は、古くから「をり」の部分の解釈で説が分かれているようです。つまり「枝を折る」という意味での「をる」か、「そのばにいる」という意味でのをる」なのか。どちらの動詞を想定しても訳に不自然が生ずるわけでもなく、決定的な判断は下しにくいといったところでしょうか。
私が一つ提言したいことは、どちらの動詞が正解であるかを煎じ詰めるよりも、詠者が「をる」という動詞を選んだその判断にスポットライトを当ててはどうか、ということです。歌を詠む人で、しかも古今集に入集(にっしゅう)するくらいの作を残す人ですから、当然言葉に対するアンテナは高いわけです。そんな人が、自作の意図が不本意にも誤解されうるような、どちらとも取れる曖昧な言葉をあえて取り入れたりするのでしょうか?

仮に「心を深く染めてい(居)たので」という解釈で一本道にしたかったのなら、「をりければ」よりも「ありければ」を選ぶ道もありそうです。そうすれば「折る」という取られ方は絶対にされません。しかし、そういう背景がありながらわざと「をりければ」を選んだということは、どちらで解釈されても問題なく、むしろその両方の意味をキープした含みのあるニュアンスを残したかったという考え方が、後ろに控えていたからではないかと、私は感じています。言い方を変えれば、「居(を)る」の音に「折(を)る」が含まれるという程度のことを想像できない人物がこの歌を詠んだとも思われないのです。

皆さんは、どんな風に感じますか?

 

次回、8番歌に続きます。