青の書斎

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~極小と極大を行き来する魔術…だけではない~俳句・飯田蛇笏「芋の露連山影を正しうす」

 ・所収

山廬集』1914年

・作者

飯田蛇笏(いいだだこつ、1885年4月26日 - 1962年10月3日)

 ・句

芋の露

連山影を正しうす

〇見どころその1 予想しえない展開

飯田蛇笏の代表的な句との呼び声高い本作品の魅力は、なんといっても受け手に先を予想させない大胆な展開ではないでしょうか。芋の葉においた露は、近づかなければ見えないほどの微かな存在。そして対するは、山 。しかも「連山」とあるので、連なる山々の勇壮・雄大な姿が想像されます。芋畑の露から、山々のなす壮大な景色へのダイナミックな視点移動は、意外性を伴うものですが、受け手の胸中にひとたびイメージが喚起されると、納得とともに爽快な読後感を得ることができます。

〇見どころその2 時間帯の指定

露といえば、早朝に植物の葉におくもので、この句の示す時間帯も朝ということになります。空気が澄んで爽やかな印象である中に、小さく儚いものと、巨きく不動のものとが対比されるさまは、句の輪郭をよりはっきりとさせているように感じられます。

〇見どころその3 極小と極大…二者を一つのフレームに収めることを選んだ「眼」。そして「正しうす」の効果

  「連山」は途方もなく大きく不動のものなので、見たければいつでも視界に収めることができますが、「芋の露」の方は移ろいやすく、人間の側があえて見つける努力をする必要があります。加えて、タイミングよく二者を目にする機会があったとして、作品の形に残そうという気持ちが起こらなければこの句は生まれえないわけですし、さらに、言葉の選び方と配列の順も考える必要があります。そして「正しうす」という句の終え方にも、色々の試行錯誤があった末にそこに置かれたものであるはずです。
さて、この俳句は「芋の露」から始まっていますが、考えてみれば、作者が実際に目にした順で配列しているのかどうかはわかりません。例えば、先に山を見てから、露に気づいたのかもしれませんよね。実際の発見順がそうであるなら、作者は「山から露へ焦点を絞るより、露から山へ視野を広げたほうが句が活きる」という判断を下したことになります。極小から極大へと推移する、その末広がりな構図をよしとしたわけですね。

この句は、「芋の露」から「連山」へと視界がバっと広がるその過程に迫力があるわけですが、それを単なる迫力だけにとどめず、全体により深い味わいを与えているのが「正しうす」ではないでしょうか。連なる山々の持つ雰囲気を、ただ壮大だとうたうばかりでなく、「居住まいをただして整然とそこにある」と、山の立ち居振る舞いに踏み入って言及することで、ひときわ清涼さを生み出しているように感じます。実際、「連山」の2文字には、山の荒々しく峻険な側面をイメージさせる向きもあります。そこに「正しうす」が入ると、スケールの大きさに「うつくしさ」が伴って、作者の示したかった世界観が実現されることになるのではないでしょうか。
さらに付け加えると、「正」は「正面」「公正」「正々堂々」とった語群とつながります。人間がことに当たる際の実直さ・誠実さといった態度と、「連山の正しき影」という描写は、親和性が高く思われます。この句が、作者にとって「よい」と思われる景色を詠んだものであるなら、連山が作者にとって「こうありたい」という願いを投影したものと窺うのも一つの読みとして許されるのではないでしょうか。

※「短歌」シリーズは、アップのタイミングや選歌について、不定期です。

次回をお楽しみに。