青の書斎

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~ジギャクを交えた老練な一首~古今和歌集・春歌上・8番歌「春の日の光にあたる我なれど かしらの雪となるぞわびしき」

・詞書

二条のきさきの東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せ言あるあひだに、日はてりながら雪の頭にふりかかりけるをよませ給

・作者

文屋康秀

・歌

春の日の光にあたる我なれど かしらの雪となるぞわびしき

・訳

春の日の光にあたる私だが

頭が雪となるのがつらいよ

見どころその1 「天気雪」と即興の手腕

二条のきさきとは、藤原高子(ふじわらのたかいこ)のことで、陽成帝の母。彼女が正月三日、文屋康秀を御前に召して、今の天候をタネに一首詠めというわけですね。天候というのは、日は照っているのに雪が頭にふりかかる、いわゆる「天気雪」の空模様。せっかく春の陽光を浴びているのに、一方では頭に雪が降りかかってくる、それがつらいというわけです。面白いのは、この歌を誰が詠むかで歌の味わいが変わってくるということ。何となれば、この歌の頭に雪がかかるという表現に、黒髪が白髪に変じるという隠喩が含まっているからです。清和天皇陽成天皇に歴任した康秀なら、この歌を詠んだときに初老を迎えていてもおかしくありません。長らく宮廷に仕え続けた康秀の頭は、白髪混じりになっていたのかもしれません。そういったことから、この歌には表・裏の意味が同時に存在しています。気づいた人にはくすっと笑えてしまうような、軽いジギャクが憎めない感じを生んでいます。

見どころその2 下の句へかけてのトーンダウン、余韻の哀愁

この歌には、どんな時代にも人が直面するテーマの一つ「老い」が詠み込まれています。前半には「春の日の光」という明るく温かな印象を持つ言葉を置かれますが、後半には「雪」「わびし」といった言葉でトーンダウンしています。さて、この歌の詠み方としては、明るく始まるのと、暗く始まるのと、どちらがよいのでしょうか…?そう考えた時、やはり今ある形が最も歌の趣を活かしていると納得させられます。その理由の一つ目は、明るい要素から始めて、後半でトーンダウンするデクレシェンド感が、人間が生まれて青年時代を過ごしやがて年老いていくという流れに逆らわないから、ということ。もう一つは、前半を誰にも分かる状況説明からスタートさせることで、後半のオチ、種明かしの面白さを受け手に分かりやすく伝えられるから、ということです。

物寂しい感じの歌ではあるのですが、この「老い」自体も歌にしてしまう創作態度。人生に対して前向きであることの表れといってもよいのでは?そんな風に思いました。

 

次回、9番歌に続きます。