青の書斎

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俳句・石田波郷「雀らも海かけて飛べ吹流し」

・所収

『風切』 一条書房、1943年

 

・作者

石田波郷(いしだはきょう、1913年3月18日 - 1969年11月21日)

 

・句

雀らも海かけて飛べ吹流し

 

〇初句の訴求力

「吹流し」といえば端午の節句。子どもの健やかな成長を祈って庭先に出し、泳がせます。こいのぼりと一緒に見かけることが多く、それらが晴れ渡った空を泳ぐ姿は勇壮で、見る人を爽快な気持ちにさせてくれます。なお、「吹流し」は一般的に細長い円筒形の布を指しますが、鯉のぼりそのものを言う場合もあります。

 

さて、初句で登場する「雀」ですが、多くの人にとっては小さくかわいらしい鳥という認識があるのではないでしょうか。その「雀」に対して、こともあろうに「海かけて飛べ」というので、受け手は何のことかと驚きます。

 

〇比喩の落とし穴

もちろん、端午の節句という時期を考えると「雀」は「子ども」、「吹流し」は「大人」の比喩と捉えることができますが、だからといって句中の言葉をそのまま読み替えてしまっては、俳句の趣が変わってしまうように思います。

つまり、「雀」はあくまで「雀」だと思うのです。

そのまま「雀」が「海かけて飛」ぶ様子を思い描けばいいのではないでしょうか。実際、俳句の字面から立ち上がるイメージは、その通りのものであるはずです。

 

ただ、そこに「吹流し」というワードが入ることによって、「端午の節句」が頭に過ぎり、懸命に飛ぶ「雀ら」の姿が「子どもたち」とかぶさってくる。雀の姿を通して、子どもたちの成長と巣立ちが暗示されるわけですね。

 

〇「も」に見える温かな視線

結句に見える「吹流し」は、作者が初夏のある一日を過ごしていることを理解させてくれます。端午の節句に表れる力強い「吹流し」。その勇壮な姿を目に焼き付けた後で「雀」を実際に見たのか、あるいは「子ども」をイメージさせる小動物を想像で補ったのかは定かではありませんが、ともかく、二者を対比させるアイデアを思い付いたのですね。

 

その構えをみると「小さくはかない『雀』にくらべて『吹流し』は勇壮である」という、優劣をはっきりさせる対比ではなく、「雀たちも海をかけて飛べ、吹流し(のように)」という、小さい者の背中をおし、立てるような趣意になっています。

そのとき「も」が、か弱い存在である雀をしっかりと拾い上げます。子を見守る親の厳しくも温かい目線を感じさせられるように思います。

 

※吹流し(のように)という言葉の補充は、厳密には好ましくないように思われます。作者はあくまで「吹流し」の体言止めで句を終えています。

 

〇なんで句末が「鯉のぼり」じゃないの?

石田波郷の時代に「鯉のぼり」という言い方が一般的でなかったのなら、ただ言葉に選択の余地がなかったという、それまでのことだと思います。それに、前述の通り「吹流し」には「鯉のぼり」そのものを意味する場合もあります。

 

しかし、そういった要素を抜きにしても、本作において「吹流し」という言葉の選択は間違っていなかったように思います。それは字面の問題です。空を渡る風を感じさせる「吹く」に、海の営みを思わせる「流し」。どちらも動的な言葉で、句風に合います。

さらに細かくみると、句を読み上げた際に「ふきながし」の語頭と語尾には風を感じさせる音、「ふ」「し」が入っています。これは「こいのぼり」にはない特性です。

 

こういったことを考え合わせると、「吹流し」という言葉の選択には肯かされてしまう、というのが私の感想です。

 

※「短歌」シリーズは、アップのタイミングや選歌について、不定期です。

次回をお楽しみに。